彼女が遺した言葉を、もう一度、考えてほしい。そう言い遺すこと以外、もう何も出
来なかった二十一歳の女性の孤独な「遺言」を-----（清水潔著『遺言』新潮社刊より）

　彼女は自分に迫っていた危険を知っていた。二十一歳の女性が、恐怖と闘いながら、
それでも一生懸命生きようと毎日を送っていたのだ。
　そんな詩織さんが突然に背中に受けた衝撃と激痛。それがどれほどのものだったか。
振り向いた先にいたのは小太りの見知らぬ男。そして、刃渡り一二五ミリのナイフが
もう一度胸に迫ってくるのを彼女は見たのだ。その絶望感。孤独感。それは誰にも分
かるまい。分かるはずがない。
　詩織さんは彼女が愛したこの街に座り込み、この場所に倒れた。あまりに短い人生
の終着点は、家でも病院でもなく、まわりに彼女の愛する人の一人もいない、茶色の
レンガが埋め込まれたこの歩道だった。薄れゆく意識の中で、苦しい呼吸と痛みの中
で、彼女はいったい何を思ったのか。愛する父、母、かわいい弟達のことか‥‥。そ
れともあれほど助けて下さいと警察に頼んだのに、こうなってしまった悔しさ、無念
さだろうか。
　もはや言うまでもないが、詩織さんは普通のお嬢さんである。ひまわりが好きで、
両親や弟達を愛し、友人を大切にし、動物を可愛がる、そんなどこにでもいる女性だっ
た。最後の最後まで「お父さんやお母さんがかわいそう」と両親を心配していた普通
の、あなたの隣にいるようなお嬢さんだったのだ。そんな普通の市民が、なぜこんな
目に会わねばならないのか？
　なぜあれほど助けを求めた詩織さんの声が警察には届かなかったのか？　
　なぜ詩織さんに「お前を地獄に落としてやる」と言い放ち、死ぬまで怯えて暮らす
ことを強いた男がなんの刑にも服さないのか？
　なぜたった一人の女子大生に、よってたかって嫌がらせを繰り返した男達が微罪な
のか？　なぜ普通のお嬢さんが風俗嬢と呼ばれたのか？
　なぜ遺族の声が警察にかき消されてしまうのか？
　なぜ詩織さんの遺した言葉を信じられなかったのか？
　そして、なぜ詩織さんが、もしかしたらあなたの娘であったかもしれない彼女が、
死ななければならなかったのか？
　彼女が遺した言葉を、もう一度、考えてほしい。そう言い遺すこと以外、もう何も
出来なかった二十一歳の女性の孤独な「遺言」を。
「私が殺されたら犯人は小松‥‥」